LOGIN馬車の窓から見える景色が、次第に変わっていった。
帝都を出て三日。
青々とした麦畑は、いつしか痩せた荒野に変わっていた。土は乾き、ところどころに、灰をかぶったような色の岩が転がっている。遠くに見える山の稜線が、記憶のどこかと静かに重なり始めていた。――ここは。
胸の奥で、何かが疼いた。
説明のつかない疼きだった。
痛みでも、懐かしさでもない。もっと深いところに沈んでいた何かが、久しぶりに、水面近くまで浮かび上がってくるような感覚。「お嬢様」
シェラが、私の様子に気づいて声をかけた。
「ご気分が優れませんか」
「……いいえ」
私は窓の外を見つめたまま答えた。
「ただ、この土地に見覚えがある気がして」
シェラは何も言わなかった。
けれど、その沈黙の質で分かった。
彼女も、同じ景色を覚えているのだ。かつて同じ軍に正午の鐘が、街全体に響き渡った。大聖堂の扉が、内側から静かに開かれる。私たちを迎え入れたのは、白い法衣をまとった聖職者たちだった。誰も言葉を発さず、ただ道を示すように、両側に並んでいる。その静けさが、かえって不気味だった。「――こちらへ」先導役の男が、短く告げた。大聖堂の内部は、想像を超えて広かった。高い天井には、色鮮やかな硝子がはめ込まれ、そこを通した光が、床に無数の色の模様を落としている。柱は太く、どこまでも高い。人の声も足音も、すべてが天井へ吸い上げられて消えていくようだった。美しい場所だった。だが、その美しさは、人を圧倒するために設計されたものだと分かった。*祭壇の前に、一人の男が立っていた。五十代半ばだろうか。豊かな白髪を後ろへ撫でつけ、金糸で縁取られた法衣をまとっている。細身だが、姿勢はまっすぐで、老いを感じさせない。何より、その目が印象的だった。深く、そして底が見えない。「よくぞ、おいでくださいました」彼は、穏やかに微笑んだ。「聖教会大司教、バルドウィンにございます」その名を、私は初めて、本人の口から聞いた。ずっと影の中にいた男が今、目の前で微笑んでいる。私は、膝が震えそうになるのを、辛うじて堪えた。「レーヴェンハルト帝国皇太子、アルヴィスだ」隣で、アルヴィス様が名乗った。その声には、一片の揺らぎもなかった。「ヴィオレット・ノクスハイムでございます」私も続けた。自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。*バルドウィンは、私たちを祭壇脇の椅子へ促した。腰を下ろすと、硝子越しの光が、ちょうど私の膝の上に落ちた。赤と青の模様が、布地の上で揺れている。その美しさが、この場の緊張と、どうしても噛
――――ゼル視点――――夜半、帝都の中央司令部には、まだ灯りが点っていた。高い天井の広間に、無数の書状と地図が散乱している。伝令が入れ替わり立ち替わり駆け込み、そのたびに新しい報告が積み上がっていく。わたくしは、三日前からほとんど眠っていない。前世であれば大したことではなかったが、この五歳の身体には堪える。だが、今は投げ出すわけにいかなかった。「東門、敵勢が後退を開始いたしました」伝令の一人が、息を切らして報告する。「ガイル様は」「ご無事です。負傷者は出ておりますが、死者はございません」その報せに、わたくしは静かに息を吐いた。東門は最も消耗が激しかった戦線だ。ガイル様の指揮が、よく持ちこたえてくれた。「北門は」「膠着のまま、日没とともに敵が引き上げました。明朝、再開の可能性がございます」「南部は」「主力が押し返しております。夜が明ければ、決着がつくかと」四方のうち、三方は把握できた。残る一つが、まだ届いていない。*西門からの報告が入ったのは、それから半刻ほど後だった。伝令が広間に飛び込んできたとき、その顔には明らかな困惑が浮かんでいた。伝令というのは通常、感情を表に出さぬよう訓練されている。それが崩れているということは、よほど理解しがたい事態が起きたということだ。「西門、敵勢およそ千二百、完全に撤退いたしました」「撤退。突破されたのではなく」「はい。門の守りは、一切破られておりません」わたくしは、思わず身を乗り出した。西門の守備は、二十名程度だったはずだ。千二百を、その数で止められるはずがない。「増援を送った覚えはございませんが」「増援は、ございません」「では、どうやって」「―
――――ドルフ視点――――先頭の騎馬が、俺の十歩ほど手前で止まった。砂埃が、ゆっくりと晴れていく。その向こうに、隊列が広がっていた。槍を持つ者、剣を提げる者、粗末な革鎧をまとった者。統一されていない装備が、彼らが正規軍でないことを物語っている。だが、数だけは確かに千を超えていた。「――そこをどけ、老いぼれ」騎馬の男が叫んだ。指揮官らしい風体だった。「どかん」俺は短く答えた。「死にたいのか」「死ぬ気はねえ。あんたらを殺す気もねえ」その言葉に、男が眉を寄せた。前列の兵たちが、顔を見合わせている。刃のない鉄棒を担いだ老人が何を言っているのか、理解できずにいるのだろう。「――正気か。一人で、この数を止められると思っているのか」「そんなもん知るか」俺は、鉄棒を肩から下ろした。地面に石突を突き、両手で柄を握る。「だが、やらねばならん」*最初に動いたのは、前列の三人だった。槍を構えて、同時に突進してくる。訓練された動きではない。勢いだけの、素人の突撃だ。俺は半歩だけ横に動き、最初の槍をやり過ごした。そして、鉄棒を振った。狙ったのは、人ではない。槍の柄だ。乾いた音が響き、三本の槍が、まとめて中ほどから折れた。持ち主たちが、たたらを踏んで後ろへ下がる。「な――」誰かが息を呑む声が聞こえた。俺は、追撃しなかった。ただ、元の位置に戻り、再び石突を地面に突いた。三十五年、ひたすらに鉄を打ち続けてきたのだ。どこを叩けば折れるか、どの角度で当てれば砕けるか。鉄の性質は、俺の身体が誰よりも知っている。*そこからは、同じことの繰り
――――ドルフ視点――――その日の朝、俺はいつものように炉に火を入れた。三十五年、変わらぬ手順だった。炭を積み、種火を移し、風を送る。炎が育っていく音を聞きながら、鉄を選び、槌を握る。この繰り返しの中に、俺の今世のすべてがあった。だが、その朝は違った。炉の火が安定しきる前に、村の若い衆が息を切らして駆け込んできたのだ。「ドルフさん、大変だ。街道の向こうに、大勢の兵が」俺は槌を置いた。手の中に残った鉄の冷たさが、やけにはっきりと感じられた。「どのくらいだ」「分からねえ。だが、砂埃がすごい。何百、いや、もっとかもしれねえ」若い衆の声は震えていた。無理もない。この村で、そんなものを見た者は誰もいない。*村の外れの高台から、俺は南の街道を見下ろした。確かに、砂埃が上がっている。だが、それは村へ向かってくるものではなかった。街道を西へ、帝都の方角へ、迂回するように動いている。その動きを見て、俺は前世の記憶が呼び起こされるのを感じた。あれは、正面の守りを避けて、手薄な側面に回り込む動きだ。「――西門か」呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。帝都の西門。守備の主力は南と東に回されていると、先日行商から聞いた。ならば、あそこは今、がら空きに近い。背後で、村人たちのざわめきが聞こえる。俺はしばらく、動けずにいた。*家に戻ると、妻が心配そうな顔で待っていた。土間には、まだ湯気の立つ朝食が並んでいる。息子は奥の間で、まだ寝息を立てていた。妻は俺の顔を見るなり、何かを察したようだった。長年連れ添った相手には、隠し事ができない。「あんた。何かあったのかい」「――ああ」俺は
三日目の朝、私たちは総本山を望む丘の上にいた。眼下に広がる街は、想像していたよりもずっと大きかった。白い石造りの建物が斜面に沿って幾重にも連なり、その中心に、天を突くような大聖堂の尖塔がそびえている。朝の光を受けて、街全体が眩しいほどに白く輝いていた。美しい光景だった。その美しさが、かえって不気味だった。「――謁見の申請は」アルヴィス様が、傍らの騎士に尋ねた。「昨日のうちに、先触れを出しております。ですが、まだ返答がございません」「意図的に、遅らせているな」「おそらくは」その短いやり取りだけで、状況の厳しさが分かった。私たちは、この街の外で、ただ待たされている。その間にも、時は刻一刻と過ぎていく。*昼前、二人目の伝令が到着した。帝都からの、二日ぶりの報せだった。伝令は昨夜からほとんど眠っていないらしく、目の下に濃い隈を作っていた。差し出された書状には、ゼルの筆跡で、四方の戦況が詳細に記されている。「読み上げます」アルヴィス様が、書状を広げた。「東門。ガイル率いる守備隊が、教会派の民兵およそ千二百と交戦中。防衛線は保持しているが、消耗が激しい」その一行を聞いただけで、ガイル様の疲れ切った顔が目に浮かんだ。彼は、いつも最前線で無理をする人だった。「北門。守備隊長の判断で、市街地への侵入を防ぐ布陣を敷いている。膠着状態」「西門は」私が問うと、彼は書状の続きに目を落とした。「西門は、最も手薄だ。守備隊の主力が、南と東に回されている」その言葉に、私は息を呑んだ。「では、そこが破られたら」「帝都の中枢まで、遮るものがなくなる」*私たちは、丘の上に張られた天幕の中で、書状を囲んでいた。風が布地を絶えず打ちつけ、その音が話し声に重なる。
出立から二日目の朝、私たちは国境を越えた。帝国の田園とは、まるで景色が違った。乾いた赤茶けた土に、低い灌木がまばらに生えている。空はよく晴れていたが、風は砂を含んで乾いており、頬に当たると微かに痛んだ。街道を行き交う人の姿は、驚くほど少ない。「――静かすぎますね」馬車の窓から外を眺めながら、シェラが呟いた。「本来なら、この時期は巡礼者で賑わうはずの街道でございます」「人払いがされている、ということかしら」「あるいは、皆が何かを察して、家に籠っているか」その言葉に、私は背筋が冷えるのを感じた。静けさは、平穏の証ではない。むしろ、その逆であることを、これまでの経験が教えていた。アルヴィス様は、地図を膝の上に広げたまま、じっと窓の外を見ていた。「総本山まで、あとどれくらいですか」「順調にいけば、明日の夕刻には着く」「順調に、いけば」「――そうだな」彼は、そこで言葉を切った。その短い沈黙が、私たちの誰もが抱えている不安を、そのまま表しているようだった。*昼を過ぎた頃、後方から馬蹄の音が近づいてきた。一騎だけの、猛烈な速度だった。護衛の騎士たちが即座に警戒態勢を取ったが、その旗印を見て、すぐに緊張を解いた。帝国の伝令旗だった。「殿下、火急の報せにございます」泥まみれの伝令が、馬から転げ落ちるように降り立った。喉が渇き切っているのか、その声はひどく掠れていた。アルヴィス様が、馬車を降りて彼のもとへ向かう。私も、後を追った。「何があった」「帝国国境の四方に同時に、武装勢力が現れました」その一言に、周囲の空気が凍りついた。「四方、というのは」「南、東、北、そして西でございます。すべて、同じ日の未明に動き出しました」私は、思わず